ようやっと夏休みだ。
ここ4〜5年の政治的歪みの顕著な現象に大学の「休日授業日」というのがある。
総務省は国民(主に公務員とビジネスマンに特化している気がするが)に、この日は休め、即ち「憲法を遵守」せよと。海の日に海水浴でも行って経済効果を狙うにも学生は学校に行っている。
しかし、ぐらぐらの文科省は(相当安直な官僚の思いつきだろうが、)大学に授業数を増やし(一頃に比して年に6回増)をし、日本を賢く見せよ、と命令しているようで、即ちこれは完全にねじれている現象が現れている。
最近の学園構築問題で教育界もいかに政治に翻弄されているかは明白。
まぁ現場の正社員はもっと翻弄されており、さぞ大変だろう。
今日は「何とかの日」で休日だが授業をせねばならなかった上に、試験をせよと上から進言があったためそれを実施した。「合奏」の授業なのにどうやってテストをするかがほぼ一休和尚の域であった。28年目で初体験。長生きはしそうである。
驚愕なのは百人弱の履修生のうち、学生がほぼ全員が出席するという現象。これは思考として褒めるべきなのだが、「思想」として疑問を呈さないで良い状態なのか。こちらが時代遅れなのか。果たして一時代に日本人が進んだ帝国主義を築いた全体主義に逆戻りしていないのか、と怖くなるのも事実。望まぬとも命を落とした太平洋戦争の時代的思想だ。
疑問を持たない事が恐怖。
とにかく、今日は小学生が遊んでいる中、大学生はこのくそ暑い中、原子力なりで作られたエネルギーによる冷房をぎんぎんに入れてテストをするはめになっているわけで、なんだか怖いのはこちらもそれに「慣れて」行くことかと思う。近々にこれを構築した上層部が退職していってシステムだけが残るだろうし。現場と士気を知るべし。東芝やシャープに何も学んでいない。
因みに後期は「敬老の日」が始業日で授業に行かねばならない。即ち老人を敬う事が不可能というこのシステムが、政治で構築されたのは実際的でこれからの将来が怖い。
古来より先人が高齢者に感謝をし、敬い、大切にするものと思っていた我々の世代(五十代前半)からすれば、現在の文科省の方向が怖わ過ぎるのである。民度とは別の意味で凄い国になったものと感じる。
なかんずく現代の老人は気の毒な事。学業に忙しい学生は「敬う」時間とチャンスを失うのだ。尊敬より勉強。敬えない事が当然となるその頃に老人になるのは何あろう自分だ。故に外国語の習得に勤しんでいる。鼓腹撃壌とはならない気がする。少なくともシンガポール、インドネシア、韓国、台湾、香港については敬老の精神は完全に根付いている。51歳の私が地下鉄で席を譲られたのだから。日本はいかがか。
是非、権力の年配諸氏は国に進言して頂きたい。時代がすっかり変わってしまい、我々「大人」には何ら変える事は出来ない。美しい音をお届けすす程度だ。
ついでに消費税も高いと思うが。
服従のポーズのメリーちゃん |
ということで、ようやく夏期休暇に入った。
教員の端くれからしばらく芸術家に戻る事としよう。
協奏曲のソリストとしての機会がひとつ。
他団体への客演が2つあるので練習だ!
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