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義理の家族の法事で、お墓にお骨を入れる行事に(生前に大変お世話になったので)参加してきました。確かにそれは実に面倒なことで、時間に移動に読経とそれは大変です。
色々な理由を作り、それをしない人が多数存在するのはわかります。しかし科学者であろうが医者であろうが、その人は「先人」がいたから存在しているという科学的な事で、ゆえに先人を弔うことはとても大事な事かと感じます。それも出来ないのが愚かな人かと思います。実に小さい。
こういう行事は親戚感での引け目、妬み、嫉み、恨み、格差が潜在し、それぞれ面倒な事ですが、一番ダサいのがそれを「放棄」することでしょう。弔う事も出来ないセンスで生きているのです。しかも世話になった人を軽視し、自分の事で精一杯の小さい器ということ。これを日本語「恥を知れ」、と先人が言っています。確かに疲れますが、後悔はせず、心はすっきりします。
そもそも墓地があり、手を合わせるという「人として」の行いが出来る家系はうらやましくも思います。凡そ現代人より、奈良、平安仏教のスターの天才ぶりは少し勉強すれば理解可能なものです。また、なぜこれほどの神社と寺院が寄り添って建立されているか。
神道だったこの国が多くの宗教を受け入れてきた歴史があり、その先に我々が存在しますので少し謙虚に考える事です。坊主が、という悪口もありますが、最終その坊主も人格で、物凄い勉強をされた方もおります。仏教美術は再現出来ない叡智、智慧の結集でしょう。
私自身、理科系の家の洗脳でコロナまでは「恥ずかしながら」無宗教ぶっていました。海外でも不思議がられたことがありました。
コロナで多くのものを失い、西国33所を廻り「先達」になり、多くの神社を回り神道、陰陽道をにわか勉強いたしました。陰と陽、人生などその繰り返しです。
要は、一人の人間の価値など知れているという弱さ謙虚さの必要性です。
個人的には宗派に分かれる前に建立された「善光寺」に入る手続きに入る予定です。愛犬も近くに受け入れてくれるようです。
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