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実父が逝去して一年になります。遠い昔に思う程「作業」に追われた一年でした。
本人の無宗教主義ゆえ、線香を上げる事もできませんので、特に何も行事はありません。なるほど、宗教行事は生きている人間のためにある、と言う事実を痛感します。人前葬に無宗教。カッコいいことです。葬儀でフォーレのレクイエムを流している辺りはカオスですが。
亡くなったとはいえ、それは「肉体」であり、よく言う「魂」は死んではいないでしょう。良い思い出が多くあります。しかし、それだけに「偲ぶ」節目は生きている側としては小さな儀式くらいは欲しいとも思います。私は若いお弟子さんが多いので、葬儀をすると思いました。
友人から、自分がいずれ老いて行く過程で、とくと「現実を見ておくよう」に進言され、私は真正面から向き合いました。なるほど、祖父母の逝去も含め、どんなに偉くても偉くなくても人間の最後はこんな状態になるのか、と。そのプロセスはとても残酷なものです。おかげで自分が死ぬ時は自覚すると思います。
その少し前に義父が朝起きて来ない状態での死去時とは対照的でした。健康に死ぬ事に成功された、とは言い過ぎですが、生きている姿そのものだったのでした。家で亡くなる事が可能だった人は実に14%、「スパゲッティ症候群」と言うパイプだらけの病室、がほとんどだそうです。
必ず死ぬのが人間ではありますが、その方法はなかなか選べないものです。なかんずく「健康」で生涯を全うするためにはどうすれば良いのか、さすがにわかりません。少なくとも健康への意識は大切でしょう。思えば、私はタバコもお酒も糖類も辞めました。
また、こちら側が病気になるような書類の提出やら何やらでこりました。印鑑廃止文化は全く進歩しておらず、徹底したアナログであり、出向いた場所は20箇所以上に及びます。法務局とか、もうわかりません。
書く欄が異様に小さいとかはうざい事。作る人間は書いていませんよね。何をするにも時間が異常に掛かりましたが、社会勉強と真っ向から寄り添ったため、後悔はありません。ただ、生前、施設に移す等、最後期に他に方法がなかったものか、とも思います。苦しんだのは私でもあります。
死亡診断がされれば、ボタン一個で何とかしろよ、と思います。結局、人に死にかこつけて仕事を作って稼いでいますね。税金も。
少なくとも「人は人」、「自分は自分」で、出来ることは健康なうちにしておく事、かと感じます。いずれは内臓、足腰、頭、目、耳、どこがどうなるかは不明です。
大問題なのは超高齢化社会での超高齢者の自覚の無さと他力本願が過ぎるこの国の未来です。
今は「いずれ」と言う思想は辞めていこうと、いずれ具体化、具現化しようと思います。
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