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4月17日の夕刻、父が逝去致しました。昭和8年生まれで享年88歳です。
昨年11月24日朝に救急搬送されてから実に5か月弱、最終的に肺と気管支が機能しなくなった事が要因で肺炎が死因です。
呼吸に苦しむように見えても、医師によればエンドルフィンという脳内快楽物質が出て存外そうでもないそうです。この情報はこちらの心が少し楽になります。
亡くなる前日に私が病院から呼びい出され、急行しました。
病院の配慮で対面させてくれた折、身体は暖かく軽い反応があったので、今から全員を呼ぶからしんどいだろうけど頑張ってね、と伝えるのがやっとでした。良い父でしたので涙が止まりませんでした。一人で対峙するには正直キツイ時間となりましたが、私にとっての哀しいながらも貴重な時間となりました。
翌日、遠方の兄妹も駆けつけ、最終日の朝には奇跡的に家族全員がまだ暖かく、息をしている父に会う事が出来ました。これは一日でも早ければ叶わぬ事だったのです。
前日に個室が空いたのようですぐに移して頂きました。病院の特別な配慮のおかげで家族全員の対面面会が許され、最後に触れつつ会話を交わせた事で、僅かでも非常に幸せな時間を過ごせたかと思います。父も家族が揃うのを待っていたのだと思います。
しかし、コロナのため付き添う事は叶わず、一旦戻りました。
父の病室から妹が撮影した窓からお風景です。小さな雲が、、 |
その4時間後に危篤との連絡があり急行。妹と私、妻で看取り、死亡を確認致しました。 死因は肺炎ですが、数値的には老衰と言う程に数値データは無茶苦茶になっていたようです。
健康管理を徹底していた人だけに、簡単には死なず、死ねない程にストイックだったと思いました。
その後も奇跡の連続で、式の会場は貸し切り状態、翌日夜には(父の強い希望で)家族葬の通夜、翌日朝に葬儀(お別れ会)を遂行しました。
実に無駄のない綺麗な時間がスムーズに流れて今に至ります。しかもその日は適温で快晴でした。
父は「死んだ人より生きている人が大事だ」という人でしたので、「日々これ遺言」と考え、私は大学の授業を休まず通夜の前に3コマ、翌日は葬儀後に1コマ行い、休講はしませんでした。これが丁度何もする事が無い時間帯であった事も不思議な事です。「ここは良いから君は仕事はして来い」と同じく大学教員で学者であった父に言われた気がしました。
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生前をご存知頂いていると思いますが、学者らしい学者であり、ユニークでもあり、しかしリコーダー一本でやるなら一生やれ、と応援してくれた父でした。演奏会のビデオ撮影も進んでやってくれた事は懐かしい思い出です。
現在、家族一同、良い人生だったね~と思っています。やはりとても寂しいのですが、後悔は無いですし、私は急変した父を発見し、急性期病院からの快適な回復期療養病院への転院や毎週の着替えの届け、毎月の支払業務等、色々とやり切りました。
これも遺言ですが、徹底した「家族葬」で一切の宗教やお香典なり、お経なりを拒否していた事も父らしく思います。ただ、私、妹、妻の判断で沢山のお花を飾り、安置し、私が父の最後期の経緯をご参列の皆様に報告し、滞りなく式典を行いました。
式場の担当者さんが以前はお花屋さんだったという点もその素晴らしいセンスの祭壇を作りあげてくれた奇跡の一旦だと思います。
葬儀の後の仕事の帰路、美しい太陽が落ちました。 |
知って下さっていた方々。色々とご心配も頂きました事、誠にありがとうございます。
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